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AI時代における感性・悟性・理性

18世紀、経験論が主張されるようになると、モノそのものがそこに確かに存在しているかどうかも疑問が付されるようになった。デカルト以来、方法的懐疑が徹底されるようになり、確かに渡しの目の前にあるように見えるコーヒーカップでさえも、その存在を疑うようになったわけです。たとえば、夢のなかでみたコーヒーカップは実在しない。それと同様、今こうして経験しているコーヒーカップも、実在しない可能性を完全に排除することはできない。

合理論を信奉していたカントは、こうした経験論の考え方に衝撃を受ける。のんきに、「神とはなにか」などと議論している場合ではない。経験できるものでさえその存在を疑うわけで、それはもちろん、直接的に体験できない神などは、存在しようもない。それはまだ宗教の影響力の強かった18世紀には、とほうもない話だった。

カントはまず、経験論のいうように経験できるものだけを語るべきで、経験できないものについては安易に語ってはいけないのだという切り分けを行う。なぜなら、経験もできないものについては、なんとでも言えてしまうからだ。ウィトゲンシュタインはそれを、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と言った。

そのとき、カントは悟性というはたらきを設定した。感性的に感じとったものを統合するはたらきである。ものをみたときに、その色や形、素材感などを統合してひとつのものとして認識するとき、悟性がはたらいているのだと考えるのである。

物自体(語りえない)→感性→悟性→理性

そう悟性を設定したときに、AIはまさに悟性を担っているということがわかる。たとえば、高精度に風景を捉えるカメラセンサーは、まさに感性の器官であるが、今までのデジタル処理ではそれがりんごであるか、自動車であるか、はたまた猫であるか見分けることはできなかった。ディープラーニングによって、猫を猫として認識できるようになってきたというのは、コンピューターが悟性をもつようになってきたということになる。静止画だけでなく、動画で、音声で、触覚で、ものごとを「認識」するようになる、つまり悟性を持つコンピューターがわれわれと関わってくるというのが、われわれを取り巻くAI時代の情報環境なのである。

その意味で、ここで「悟性」が重要だという指摘は、不十分であるといえると思う。悟性でさえも、コンピューターが獲得する時代において、「悟性」が重要ということではない。

井上 AI時代に何が必要なのか問われると、結構多くの人は「感性」と答えたりするんですが、むしろAIってすでに絵画や音楽をつくれるので感性的な部分はある程度はカヴァーできている。わたしはむしろ「悟性」こそが大事だと思っています。それは考える力のことですね。いまのAIってたくさんの数値データから関係性を抽出することはできるけど、言語的な思考をしたり抽象概念を扱ったりすることが難しい。まだまだ数値化できないものが世の中にはありますから。思考力は人間ならではの能力だと思っているので、学生にもそこを磨いてほしいなと思っています。そういう意味で従来型の詰め込み教育は限界を迎えているといえるかもしれません。

wired.jp

AIは、過去のビッグデータからまなぶという意味で、基本的には過去を学ぶ仕組みである。そこでは、自分の獲得した悟性そのものへの批判的な言及はない。「ケーキ」という概念について、それを覆すような新しいケーキを生み出すことはない。AIが賞賛されるのは、ケーキらしいケーキをデザインするときであり、また、顔らしい顔を生成するときである。

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irorio.jp

そうすると、カントの分類でいけば、理性こそ人間が発揮しなければならない領域だということができそうである。しかしそれはもちろん、かなり多くの留保が必要になる。カントが感性や悟性にこだわったように、理性を暴走させることなくAI時代の悟性装置を使いこなした上での理性であるべきなのだ。