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『表現の不自由展・その後』展示再開について

基本的に、『表現の不自由展・その後』について、原則として中止させるべきではないというのが、僕の考え。それは、『表現の不自由展・その後』に対して賛同するからではなく(むしろ批判的)、まっとうに批判する機会さえも奪うものだからだ。

再開されたということもあるので、このタイミングに批判や個人的な論点をメモ程度にまとめておきたい。

1)実行委員会が「表現の不自由」を先導していないか

『表現の不自由展・その後』に対する批判として、やはり『表現の不自由展・その後』の実行委員による「検閲」の問題を指摘したい。公的美術館での展示が中止された会田誠の作品が展示されなかったのは、実行員会による「検閲」が働いたからだ。実行委員会こそが不自由な表現を強いており、そのねじれが大きな問題だった。

 自分の意見に合う人の表現は守るが、反する者の表現の自由を否定するというダブルスタンダードは、看過できない。

2)「平和の少女像」の多義的な意味を読み取り、転倒させるべき

平和の少女像は、韓国人によって「慰安婦像」とさせられてしまったし、日本人もそう信じているが、実はそうではない。普遍的な平和の像として捉え直し、韓国のベトナム戦争でのライダイハン含む性犯罪を象徴する像として再定義すべきだ。(それなら右寄りの人も納得しないだろうか?)

アートの文脈でいえば、岡崎乾二郎が指摘するように、その豊かで多義的な表現を改めて読み取るべきだろう。

ただ、少女像を「慰安婦像」として政治的文脈のなかで位置づける実行員会であったなら、こうした意味の転倒は望むべくもない。

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3)天皇の肖像とChim↑Pom作品への誤解を解くのはたいへんだ

天皇の肖像を焼いたことへの批判をしている作家の意図が、まったく理解されていない。作品を撤去し図版を焼いた行為への批判なのだから、あれは天皇の肖像を焼いた行為への批判として読み取るほうが自然だろう。しかしその表現の一部を取り出して批判するのは、誤読としかいいようがない。しかし、この誤読を解くのは容易ではない。

 再開にあたっては、Chim↑Pom「気合100連発」も炎上している。

www.j-cast.com

これもまた、被災地の若者が「被爆最高!」と叫ぶことへ、軽々しい批判が可能なのか、疑問だ。むしろ痛切な感情が伝わってくるものであり、表層的な「被災地をバカにしている」という短絡的な批判のほうが、(たとえば映像に登場している被災地の若者含め)バカにしているようにも見える。しかし、この誤解を解くのは容易ではない。

実行委員会の政治的な偏向によって、こうした誤解が加速されている側面も大いにあり、それは批判すべきポイントではあるものの、しかし政治的に中立な実行委員会が行っていたとしても、こうした批判は避けられないだろう。これは実行委員の問題というよりも、見たくない人の目に触れないようなゾーニングの問題であり、SNSを含め美術館環境が容易に外部にさらされている状況において、それが困難になっているということを示しているように思う。