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SEALDsを批判しても何も生まれないと思う

結論を言えば、擁護もしないし、かといって批判するのも微妙だと思う。

正直なところをいえば、SEALDsにはまったく共感を覚えない。現実的な安全保障の話から言えば、アメリカとの集団的自衛権がなければ成立しない。アメリカ抜きの安全保障の話(自主なのか、他の国との集団的自衛なのか)をしないまま、ただ反対しているように見える。SEALDsに顔を出している民主党だって、いざ政権をとったら集団的自衛権の行使には反対できない。政争のためにけしかけているようにさえ見える。SEALDsに仮託して自分の欲望を実現しようとする大人の姿には、ちょっとウンザリする。

www.dpj.or.jp

しかし、こうしたネットを通じた運動の拡大や、それを受けて既存の権力が崩壊する流れは、無視することのできないものだ。たとえば「アラブの春」や「オキュパイド・ウォールストリート」などで起こったようなできごとと同じ文脈にある。そしておそらく、(あまり認めたくないし、レベルも違うけれども)オリンピックエンブレムの問題も、大きく見れば同じ流れにある。国家の権威や権力に疑問を投げかけ、「真に民主的な」プロセスを求める流れだ。

こうした大きな流れは、おそらく止めることができない。現実に起こっている潮流として、深く受け止める必要がある。SEALDsを批判している人の中には、こうした流れそのものに抵抗しようという印象を受ける。たとえば「デモではなにも変わらない」という指摘は、グローバルで見るとそうでもないわけで、論点はおそらくそこにない。(もちろん、今のSEALDsの主張で世の中が変わるとも、僕には思えない。)

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アラブの春 - Wikipedia

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ウォール街を占拠せよ - Wikipedia

オキュパイド・ウォールストリートの活動では、「We are the 99%」というスローガンが掲げられた。これは、上位1%の富裕層の資産が増加し続け、アメリカ合衆国の全資産の34.6%を所有していることへの批判だ。

こうした対立構造は、たとえばオリンピックエンブレムの話題でも繰り返され、「庶民感覚」をもちだせばすべてが正しいように主張され、それを理解しないデザイナーと対比させた(本当はそんなことはない。佐野研二郎の生み出したデザインに、多くの「庶民」は慣れ親しんでいる)。また、記者会見で発した「一般国民」という言葉は、自分たちを特権階級と捉える言説として、まさに揚げ足を取るような反応が多く見られた。

getnews.jp

こういう対立構造においては、どちらの立場をとったとしても、それは建設的なものにならないということが、今回のオリンピックエンブレムの問題で僕自身が体感したことだ。批判する人は対立が激化すればするほどその存在意義が高まる。であれば、わざわざ融和する必要もない。相手の発言を、曲解してでも自分たちとは意見の違うものだというふうにしないと、反対ができなくなる。

そしてこうした反対することによって存在意義を確かめるような勢力に対して批判を加えることは、問題解決から遠ざけることになる。まっとうな批判をしても相手は理解しないし、一方で批判される側が完全に潔白ということもない(独裁政権などの場合は特に)。佐野研二郎さんだって、そりゃあれだけ綿密に調べ上げれば、ホコリも出る。東京オリンピックのエンブレムのデザイナー亀倉雄策だって、例外ではない。過去には、雑誌の表紙図案で、海外の雑誌から盗用したとして批判されている。(もちろん、当時と今の著作権に関する意識はずいぶん違うことも考慮しなければならない。)

d.hatena.ne.jp

そしてもう一方で、こうした若者の動きを頭ごなしに批判しても、あまり良いことはないだろうと思う。世の中が違うパラダイムで動き始めているという可能性を感じる必要があると思う。すなわち、専門知や実績などではまったく評価されることのない世界、そのときその瞬間の勢いだけが評価される世界。この意味で、茂木健一郎さんの「安保法案の歌」は、「正しい」アプローチだと思う。茂木さんは、SEALDsの内実よりも、SEALDsが起こるこの状況を肯定しているのだと思う。

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