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芦田宏直「シラバスとは何か」は、「考える」ための教育である

芦田先生のブログの記事「シラバスとは何か」は、学校関係者でなくとも必読の内容だ。

www.ashida.info

この記事のポイントをひとことで言えば、概念の「時間化」である。

今仕事をして、生きている〈私〉は、さまざまな歴史を背負っている。仕事という概念だって、歴史的概念である。江戸と令和はもちろん、平成と令和だってその概念は違う。働き方改革は、仕事概念に今まさに大きな変化をもたらそうとしている。地層のように積み重なった一番上の、目に見える層を指して、私たちは普段の会話の中で簡単に「仕事」とか「働く」と言っているが、それは今この瞬間だけに通用している、刹那の概念である。

コマシラバスは、シラバスを時間で割る、いわばシラバスの地層化である。ある概念を獲得するのに、最新の概念を教えたって身につかない。最新概念の前提となる過去の概念を、互いに関連付けて再構成し、それを90分という時間で割っていく。その地層の深さがあってはじめて、概念が自分のものとなる。

学校という装置は、そうした地層と向き合うための時間を許してくれる。インターネットが普及した現代において、この時間はさらに貴重なものになっている。ネットでググればすぐに「最新の」情報に触れることができる。その効率性と、コマシラバスの重層性は、対照的である。ネットで1分で到達できる概念に、15コマを費やす意味を理解するかどうかが、この芦田のシラバス論に共感するかどうかの分かれ道だろう。

アクティブラーニング、MBAなどで行われているケースディスカッションは、こうした時間的背景を持たない、その瞬間だけの概念処理で終わることが多い。それは、こうした概念がコミュニケーション手段に堕しているからだ。しかし、私達がさまざまに操作している概念とは、本質的に思考の手段であり、思考の成果である。1分で獲得した概念は、表層的なコミュニケーションには使えるだろうが、思考には耐えない。(ペラペラ意味のないことを喋り続けるバカが生まれるだけである。)15コマの地層を積み重ねていくことによって初めて、私達はそこに新しい地層、今までにない地層を積み重ねる地点にたどり着くことができるのである。

さて、本間正人の「最新学習歴」への批判も、これに関連するものだろう。人は学歴で評価されるべきではなく、最新に何を学んだかで判断すべきだという「最新学習歴」のコンセプトは、本質的にこうしたコマシラバスという地層を考慮しない。(ただ、社会人はもはや、こうした地層を積み重ねる地道な時間も空間も得難いので、「最新学習歴」にはけっこう慰められて、それなりに救われる。)

この流れで話を続けてみると、このシラバス論は、これからまさに大学で学ぼうとする学生たちにとっては福音であると同時に、すでにこうした時間を無為に過ごしてしまった、地層に向き合うことのできなかった社会人にとっては、とても歯がゆいものになる。(自分自身も含め)

ビジネススクールで社会人学生に教えるときに、この手の授業を(私が)やったら最低評価を受けるだろう(そうではないという芦田先生からの反論は想定ずみなので、「私が」とつけている)。ケースディスカッションをするときにいつも感じるのは、どのような知的地層を積み重ねてきているかというのは、各個人の前提条件として、不問に付すしかないということ(実務として)。(もうすこし丁寧に書くと、学生の地層の厚みを揃えるような準備作業はできないということ。)なので、「学生の多様性により、授業が豊かになる」という言い方で、その地層の厚みの違いも含め、納得してもらうことになる。実際に「世間」とはそういう多様性にあふれているわけで、ビジネススクールで学ぶ多様性への対応はそれなりに実践的である。(ビジネススクールで教える立場として、これくらいは主張させてほしい。)

ただ繰り返しになるが、本当に「考える」ということ、新しいものを「生み出す」ということでいえば、地層的学びが欠かせないと思う。

結論としては、こんな積分的なシラバス論を書きながら、一方でそうした歴史性が消去される微分的ツイッター論を喜々として書く芦田先生はおかしい。