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「ビジネスモデル症候群」の違和感をシステム論的に解説してみた

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世界を客観的にすべて見通すことはできない。そのため人は、ときに不合理なこともしてしまう。限定合理性は、人の認知の限界を指摘したものだ。

限定合理性 - Wikipedia

サッカーの試合で、視聴者はスタジアム上部のカメラでピッチを客観的に認識する。「神からの視点」をもって見つけたスペースについて、「なぜそこにパスを出さないのか」という指摘はもちろん正しいが、それはあくまで擬似的な神の視点があったからこそ見つけられたものである。一度ピッチに立ってみれば、プレイヤーが動的に動いて刻一刻と変化する状況の中で、そんなスペースを「認知」するのは非常に難しいことはすぐ分かる。

システムを外部から、神の視点で認識し制御しようとしたら、それは限定合理性の誤謬に陥るだろう。その意味で、神の視点を手に入れたかのようにビジネスモデルを設計してしまえば大きな問題となる。「ビジネスモデル症候群」が起こるとすれば、そうした視点の無謬性を前提としたときであろう。だから、「そのビジネスモデルは本当に可能なのか」という検証が必要なのである。

ビジネスモデルの検証では、神からの視点を放棄して、一プレイヤーに立場を変えなければならない。プレイヤーとなった瞬間に、「ビジネスモデル症候群」はすっかり霧散する。限られた時間の中で、限られた情報の中で、ファーストタッチを求められるからだ。そして動き始めたボールを見てプレイヤーが一斉に動き始めるとき、スペースはダイナミックに変化していく。このとき、視点はシステムの内部へと移動している。

システムを外部からではなく内部から見ることにより、いわゆる観測問題を越えていく。それが第三のシステム論であるオートポイエーシスの目指したもののひとつであった。そこではインプットとアウトプットはなく、システム内部で動的に自己を創出していく。ピッチ上へのインプットは、選手交代などの限られたものを除き、ほとんど行われない。ピッチ内部で完結するのである。

観測問題 - Wikipedia

オートポイエーシス - Wikipedia

ビジネスモデル症候群は、ビジネスというシステムを外部から眺めて計画することの弊害を指摘するものである。しかし、ノーバート・ウィーナーのサイバネティックスが外部の予測できない振る舞いに気づいたときから、そうした「計画」の限界は意識され続けてきた。

サイバネティックス - Wikipedia

ウィーナーは外部の振る舞いの中にパターンを見つけ出し、パターン認識によってそうした予測不可能性を超えられるのではないかと考えた。パターンの組み合わせによって多様なな現象を起こせることは、たとえば能の型などをみてもいえるだろう。サシ、ヒラキ、カザシなどの型を組み合わせることによってさまざまな物語を能舞台に出現させる。演者の型から観客が想像を広げるという共創によって能は成り立っている(だから、難しいと思われてしまう。)主客非分離の空間であり、そこには客観的に眺めるという観察者はいない。

建築家のアレグザンダーは、パタン・ランゲージによって利用者が試行錯誤を通じて建物や都市を建設するアプローチをとった。これもまた、建築設計者という第三者的な立場を許さず、建築や都市のシステム内部からのシステム自身をデザインすることを狙ったものだ。(必ずしもうまく行っていないという指摘も多いが。)

パタン・ランゲージ - Wikipedia

もしビジネスモデルを、まるで「全知全能の設計者」の視点で使うのであれば、弊害も多い。現実は動的なシステムであり、システがシステム自身を生み出すオートポイエーシスなのだから。そのために、プレイヤーになって検証していくことが必要なのだ。そしてそこには、能や建築がそうであるように、一定のパターンが生まれてくる。僕はそれをビジネスモデル・アーキタイプ(原型)と呼んでいる。ビジネスシステムのロジックは一定のパターンを生み出すのだ。ビジネスモデル・アーキタイプを知って、そのアーキタイプを、作ろうとしているビジネスモデルのプロトタイプへと適用することは、極めて有効だ。

世界はこんがらがったスパゲティだ。そのこんがらがったスパゲティを「とにかく行動だ」とばかりに何度も壁に投げつけてほどけるのを待つのか、そのこんがらがった状態からパターンを読み解き理知的に実行していくのか。

サッカーのキラーパスは、「まずはパスしてみろ」というふうにやみくもに蹴って生まれているわけではない。ビジネスモデルは、そのキラーパスが生まれるときのプレイヤーの認知の仕組みに接近するための方法論として活用すべきである。