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境界と越境 京都駅ビルと能舞台の比較

自分が体験したことのある空間のうちで、特別だと思う空間を二つ取り上げてください。そして、それぞれの空間に講義のような意味づけを行い、その2つの意味を比較することで見出される問題意識について論じてください。(1200字程度)

 

境界と越境

京都駅は、巨大な壁として京都の入り口に立ちはだかっている。かつて京都の門として機能していた羅城門もまた、京都駅にほど近い場所で、京都とその外部を区切っていた。横幅や高さに比べて奥行きが狭い壁のような構造のため、強風で倒壊してしまった。京都駅もまた、大通りと線路に挟まれた空間に線路にそって横長に設計された、まさに現代の羅城門ともいうべき建築物である。

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[設計コンセプト]京都駅ビル[Kyoto Station Building]

 

内部に入るとまず圧倒されるのが、その大きな吹き抜けの空間である。東西に緩やかに段丘状にのぼる構造になっており、特に西側には最上階まで一直線に階段が続いている。まるでちょっとした山登りの気分である。 京都駅内部のこうした構造は、高さを意識させるものではあるものの、しかし垂直性というものとは異なる。ヨーロッパの教会建築のような崇高な神を感じさせるものではなく、京都を囲む比叡山を始めとしたなだらかな山々を彷彿とさせる。京都の条坊制を模した四角いガラス窓の構成をあわせて、京都そのものを感じさせる作りとなっている。箱庭的な京都を出現させているのである。

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[設計コンセプト]京都駅ビル[Kyoto Station Building]

 

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京都駅ビルの大階段

[広場と通路のご案内]京都駅ビル[Kyoto Station Building]

 

 

こうした京都駅の建築と比較したいのが、能舞台である。宝生流の能を学んでいるが、舞台で演じるときにはいつも、能舞台もまた境界を設置する舞台装置であることを認識させられる。橋掛かりは生と死をつなぐ通路として機能する。あの世である鏡の間からこの世である舞台へとつなげるのが橋掛かりである。 しかし京都駅と異なり、そこに壁は存在していない。死から生の移行(トランジション)があるばかりである。この舞台装置の中で、演目の中でも生と死、現実と空想の領域を行き来する。橋掛かりは越境の装置であり、能舞台はパラレルワールドとの往来なのである。

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the能ドットコム:入門・能の世界:能舞台

 

京都駅が箱庭的京都を再現したときには、そこには高さが重要な役割を果たしていた。三方を山で囲まれた京都を丘陵的な構造によって再現していた。能舞台においてはそうした高さの概念は存在しない。かわって置かれるのが、四本の柱(笛柱、ワキ柱、角柱、シテ柱)である。 この四本の柱は、強烈な存在感をもっている。この柱があることにより見るものの注意を舞台上へとひきつける。この柱にはそれぞれ方角が定められている。宝生流の場合、角柱は東、笛柱は西、ワキ柱は北、シテ柱は南となる。方角が定められることで、この三間四方の小さな空間がそのまま世界となる。さらに舞台の、右半分は現実に生きている人間、左半分はあの世からやってきた亡霊の佇む空間となっている。平面の中で空間が意味づけられ、演者は常にすり足で地に足をしっかりと付けて演じる。空間には目に見えない境界があり、立っている場所によって登場人物の存在のありかたが決定される。

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京都駅は、京都という中心と周縁を区切るための境界として建築された。一方、能舞台は、生と死という2つの世界を完全に区切るのではなく、むしろその対称性を感じさせる作りになっている。前者が高さによって生まれる空間を志向し、後者は平面性の中に世界を表現した。同じ境界を表現しても、前者は訪問の一回性が、後者においては幾度となく行われる往来が強調されていると考えられる。