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伝統反転の時代

現代は伝統反転の時代である。革新と呼ばれていた勢力がむしろその教条に囚われる一方、保守は常識(ポリティカル・コレクトネス)を覆そうとするラディカルな勢力に見られるようになった。保守的な革新と革新的な保守というダブルバインドに身動きが取れなくなっているのである。こうした中、保守を覆していくためにポリティカル・コレクトネスを持ち出しても、「正しいから正しいのだ」という教条主義に陥ってしまう。そこで、伝統主義者たちの主張に一旦同意するように見せながら、しかしさらに奥へとその源流を遡り、その表層的な伝統主義者の足元をひっくり返す必要がある。つまり、次の正統な革新は、保守を徹底した先の、底からこそ生まれてくるのではないか。

岡本太郎が縄文を取り上げ、縄文文化が日本の古層として注目を集めてきたが、それは、日本の保守勢力がいうような「伝統」の枠組みに収まらない破壊的エネルギーを持っていた。弥生的な表層を打ち破るエネルギーを持った縄文。縄文のエネルギー(怨念)を根底に持った日本文化像をこそ、反転された伝統として表舞台に引き出していくことが重要だと考える。

能には『土蜘』という演目があるが、これはまさに現代の葛藤を描き出しているかのような物語である。土蜘蛛はもちろん、弥生人に逆らって田畑の破壊などのゲリラ活動を行った縄文人の蔑称である。能ではその土蜘蛛を舞台の上で蘇らせ、源頼政を呪い殺す役割として登場させる。大暴れした後、頼政の家来によって撃ち殺されるわけなのだが、室町、江戸時代においては、こうした縄文の怨念はリアリティを持っていたに違いない。縄文のマグマの上の、不安定な弥生プレートに乗っている自分たちの立場の儚さをひしひしと感じ取っただろう。実際に『土蜘』を演能してみて、強い確信を持った。

私の研究対象であり、文化庁の嘱託を受けて取り組んでいる日本遺産は、そうした縄文のマグマを地上へと引き上げていく作業になるのではないか。日本遺産は有形文化財、無形文化財を横断的につないでストーリーとして提示し、地域活性化につなげていく試みである。これは懐古主義的に見えるし、「ふるさと」創出のようなイメージがあるが、しかしそれをもっとラディカルに転覆する機会として捉え直す必要がある。

どの地域に行っても、「縄文」の古層がある。それは現代においてどんなに洗練された都市文明を持っていたとしても、だ。能というわびさびの極地のような芸能においても、そこには色濃く縄文が宿っている。その縄文を、まるで『土蜘』で能楽師が行ったように、各地で縄文の間欠泉を掘り当て、現代に蘇らせていくのである。モダンが弥生的な立場だとすれば、それを打ち破り、ときにおどろおどろしい本質を露呈するポストモダンとしての縄文である。それは現代の文化財保護行政の中では破壊的に見えるかもしれないが、根源的な日本のなまなましいまでの本性の露呈であろう。

日本遺産のひとつに六古窯がある。六古窯を単に日本の古い陶磁器の歴史として権威付けとして使うのではなく、その根源に立ち返り、縄文土器のもつエネルギーとの連続性を発見し、そこに立ち返る機会をもたらすようなストーリー作りをすべきだろう。そこにあるのは、ノスタルジーとしての「美しい日本」ではなく、その奥にある「おどろおどろしい日本」の表出である。

伝統反転とは、伝統を否定することではなく、伝統が生まれた起源まで遡り、その起源から現代を逆照射することによって現在の伝統の虚構を浮かび上がらせることであり、そこから新しい伝統を創出することである。それをポストモダニズムの作法を参照しながら進めていくこと。それが私の戦略であり、冒頭の時代の定義は、その戦略遂行の私の宣言でもある。

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