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芸術教養研究3「アエノコト」

【設問1】

まず、対象期間内の『アネモメトリ』の「特集」の事例から、特に関心をもった活動例をひとつ選び、その活動の持つ文化史的な背景をまとめてください。(1600字程度)

 

magazine.air-u.kyoto-art.ac.jp

 奥能登は、縄文文化圏としての名残が多く残っている。里山里海と呼ばれる自然界とのつきあいかたは、弥生時代の稲作文化流入以前から行われてるものだろう。能登町真脇で発掘された縄文時代の真脇遺跡などは、その一例だろう。海からはさまざまな魚介物が採れ、また北東のアイの風に乗ってアイヌからの船も到着し、交易もさかんに行われただろう。宇出津にある酒垂神社には、このアイの風を追い風に、お酒の神様が酒樽に乗ってやってきたという言い伝えが残っている。酒造だけでなく、さまざまなアイヌの文化がやってきたのだろう。

 奥能登の海岸のすぐ裏には、それほど険しくはないなだらかな山並みがあり、そこでは豊かな山の幸を採取することができた。能登の風景を象徴するこの低い山並みは、それほど大きな危険もなく豊かな食材を人々に提供することになった。縄文時代の四千年以上にもわたって村が維持されて定住が続いたのも、こうした環境から考えるとまったく不思議ではない。人類学者の中沢新一は、『対称性人類学』などで、縄文時代には対称性の思考が働いていて、収穫をした分だけ自然に返さなければならないという発想があったのだと指摘する。自然界から人間への贈与としての収穫物に対して、人間から自然界へと贈与が行われる。アイヌの熊送りの儀式であるイオマンテは、ヒグマなどの動物を殺してその魂であるカムイを神々の世界に送り帰す祭りである。もしこのバランスが崩れてしまうと、大きな災厄が降りかかる。

 

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

 

 

 こうした縄文的な世界観が深化したのは、定住をし始めてからであった。定住をし始めると、住んでいる空間をより住みやすいように工夫し始める。そうすると、その空間は自然の空間から人間の空間へと変化する。村は自然の摂理から一定の距離を取ることになる。自然と一体化して暮らしていた人間が、そこに人間的な空間を作り出し自然界と分離していくなかで、自然と人間の空間的な二元論が生まれてきた。この人間的な空間を維持するためには、その空間をもともと所有していた自然へのお礼をしなければならない。でなければ、地震等の大災害によって人間的な空間はすぐに、自然の中へと回収されてしまう。こうした縄文的な意識の色濃く残る地域での稲作は、里山のなかの棚田のように、自然とのバランスをとるようにして広がっていく。

 まるやま組が取り組んでいる「アエノコト」は、そうした縄文時代の風習を今に残すものだろう。収穫に感謝し、五穀豊穣を祈念して神様をおもてなしし、年明けにお返しする。そこには、彼岸と此岸のふたつの世界の境界を身近に感じていた縄文人の感性がある。彼岸はすぐそこに、この世と表裏一体で存在しており、その彼岸の存在感を感じながら生活していた。アエノコトで、神様は榊を依り代にして此岸に来訪する。もともと自然の空間であったその土地は、いまや人間側の空間となっている。その人間の空間に神様を招くためには、榊などの依り代が欠かせない。

 お供えされるものも多様だ。ワラビやゼンマイの塩漬け、鯖を糠ぬかに漬ける能登の糠こんか漬け、柚餅子ゆべしや寒の餅など、旬のタイミングで仕込んだ保存食だ。神様を田んぼに案内する儀式としての段取りを見ると、お米の豊作を祈るようにみえるけれど、あくまで五穀豊穣であり、さらには山の幸海の幸の豊穣を祈るものになっている。稲作はあくまでの多くの贈与の中のひとつであり、稲作の恵みは、そのために山を切り開いたことの、ある種の後ろめたさを伴っているようにもみえる。縄文時代の文化はこうした山の幸の潤沢に採れる東北地方が中心であったが、稲作がもたらされると広い平地の広がる関西に富が蓄積していった。米は蓄積がきくが、魚介物や山菜は蓄積がきかない。旬のものをお供えするアエノコトは、縄文の世界観を今に伝える行事となっている。

 

縄文の思考 (ちくま新書)

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【設問2】

つぎに、設問1で取り上げた「特集」の事例に類似した伝統的な行事、産業、活動がないか調べ、それを紹介し、教材の事例と自分で調べた事例と比較対照してください。(1600字程度)

 

 民俗学者の柳田国男は、能登で行われるアエノコトを、宮中の祭りと民間の祭りがゆるやかに結びついた「民間の新嘗祭」と位置づけた。宮中で執り行われる新嘗祭においては、天皇がその年にとれた新穀を召し上がり、豊かな収穫に感謝する。この日まで新米を口にしないという風習が残っているところもある。神に奉納をした後にはじめて、その年の農作物をいただくことができるのである。たしかにアエノコトと似ているように感じられる。

 この新嘗祭と対を成すのが、二月二七日に執り行われる祈年祭である。祈年祭では五穀豊穣を祈念し、新嘗祭では収穫された農作物への感謝を捧げるというように、ふたつがセットとなっている。神膳には、その年の新穀から作った、米、粟、粥、白酒、黒酒が供えられ、その後に天皇が新穀を食す儀式が行われる。

 しかし細かく見ていくと、異なる点も見えてくる。たとえば新嘗祭は、能登のアエノコトよりも一層、稲作の収穫への感謝が中心となっている。「新穀」という言い方には、やはり穀物、なかでも米の神聖化を感じる。また、神に奉納する色合いが強く、神を迎い入れておもてなしするというニュアンスは感じられない。縄文時代から続くイベントというよりは、やはり稲作が普及した後の弥生文化のイベントと捉えるのが自然だろう。そして、こうした縄文と弥生の対比の中で改めてアエノコトを捉え直すと、新鮮な目でアエノコトの特殊性が浮かび上がってくる。アエノコトは、新嘗祭と比べると、山菜や魚などの収穫への感謝も捧げる点が異なるし、また神をあの世からお迎えし、丁重におもてなしをしてお返しするのも、縄文的だと言えるのではないだろうか。

『古事記』には天照大神が新嘗祭を執り行ったという記述がある。天照大神は、伊勢神宮内宮に祀られる神であるが、稲作と強く結びついているという意味で、弥生文化の流れに属する。稲作文化を伝えた渡来人を中心に、近畿地方では弥生人たちがその存在感を示すようになってきた。圧倒的多数であった縄文人とは、一部で融合し、一部で敵対しながら、この二者は共存していた。その物語が記紀であり、縄文人を象徴すると言われるスサノオは、狼藉を働き、田の畦を壊したりした。これは当時、山の幸海の幸によって生活をしていた縄文人が、稲作で生活する弥生人への嫌がらせとして行ったことであり、こうした狼藉を「天つ罪」として厳罰に処したことが記紀に記されている。いずれにせよ、稲作文化はそれほどスムーズに導入されたのではなく、かなり抵抗を受けながら広がっていったと見て良い。

 そのとき、まさに縄文文化圏である能登にはどのように広まっていったのかは、興味深いところである。先述したとおり、アイヌの熊送りの儀式であるイオマンテなどの彼岸と此岸の対称性を維持するための祭りとしての色を残しながら、その上に稲作の収穫への感謝が重なり融合したのがアエノコトではないかと考える。稲作に限らずあらゆる収穫への感謝を捧げる点、神様に奉納するだけではなく、神様を迎え送り返すという往来が重視されている点などが、特徴としてあげられるだろう。

 この弥生と縄文の対比をより一層クリアにするために、もうひとつ、男鹿半島のなまはげを取り上げてみたい。同じ日本海の半島である男鹿半島では、神様ではなくなまはげと呼ばれる鬼がやってきて、家ではなまはげたちを丁重におもてなしする。大晦日や一月一五日に行われる点や、鬼と神様という違いがあるものの、この構造はアエノコトとそっくりである。稲作が伝わる前のアエノコトにおいては、もしかしたら鬼をおもてなししていた可能性もあるだろう。北前船での交易でも使われたアイの風(北東の風)は、男鹿半島と能登半島を密接につないでいたと考えられる。その鬼をおもてなしする文化が、稲作の五穀豊穣の祭りと融合することによって生まれたあいの子のイベントが、アエノコトではないだろうか。そしてこのことは、能登では比較的平和裏に稲作が普及し、融合が起こったことを示唆しているのではないかと考える。今でも能登半島の人たちは新しい人や文化を受け入れる柔軟性をもつと言われる。それはおそらく半島という地政学的な理由からだろうが、それが縄文まで遡るのではないかというのは、なかなか興味深い。