『土蜘』演能に寄せて(2015.11.24)
土蜘とは、最後まで弥生人に抵抗した縄文人につけられた蔑称です。山の中を走りまわり、田を荒らす彼らを、弥生人たちは苦々しく思っていたでしょう。この物語の中でも、源頼光は土蜘のために病に伏します。 しかしこの見方はもちろん一方的です。縄文人にとって、弥生人は侵略者であり、それまでの秩序を乱すものでもありました。八千年も続いた縄文時代が争いのない平和な時代だったのに対し、富の蓄積を生み出し土地を奪い合うような争いが起こった弥生のやり方こそ、邪悪なものに写ったに違いありません。
この「土蜘」は、もちろん内容としては弥生の視点にはたっています。それは、そのさきに天皇家があるからです。しかしなぜあえてこの土蜘を能の舞台に蘇らせたのか。そこには、数千年経ても、そして現代においても昇華されきっていない縄文と弥生の相剋があるからです。(それは例えば、縄文文化圏である福島や沖縄といった地域との軋轢も、その転写であると考えられます。過去の強烈なできごとはパターンとして繰り返します。そのパターンを断ち切るのが、現代に生きる私たちの役割です。 土蜘の登場の場面ではこのようなセリフから始まります。「汝知らずや我昔、葛城山に年を経る土蜘も精魂なり」。忘れ去られてしまったものを舞台に蘇らせ、思いを馳せ、そしてその無念に共感を寄せる。「土蜘」を演能することで、現代の対立を昇華させるヒントを得られたらと思っています。