LIFEHACK STREET 小山龍介ブログ

小山龍介公式ブログ

語り直しを誘発する物語 〜物語によって隠されていたもの〜

 作品はさまざまなかたちで解説され、特定の文脈に沿った解釈へと誘導されていく。たとえば、長谷川等伯の松林図屏風などで行われる「宗教的主題が消えて、対象そのものの魅力が描かれるようになる」という物語は、水墨画においても、また西洋絵画においても、何度も繰り返されてきた言説である。美術展にはその種の解説が、(余計なお世話ともいえる)親切心で掲げられている。その解説があるからこそ、当時の作家たちの視点を、まったく異なる文脈に生きる現在の観客が想像しうるのだが、しかしその物語によって隠されるものがあることも、否定できないだろう。

f:id:ryu2net:20180521134554p:plain

f:id:ryu2net:20180521134608p:plain

松林図屏風 - Wikipedia

 その物語に隠されていたものとは、対象との身体的インタラクションである。たとえば秀逸なキャプションを読むことで満足して絵の前を通り過ぎていく鑑賞者は、絵との距離さえも把握しないまま、過ぎ去っていく。寄ってみてれば絵の具の物理的な隆起が生々しく姿を現すであろう絵を、情報として処理していく。絵画、そして絵画に残された作家の身体的痕跡との邂逅が、うまく語られすぎている物語によって、その機会が奪われてしまう。

 このときに取るべき戦略は、鑑賞者による「語り直し」であろう。鑑賞者自身によって、身体的に語り直すことによって物語の虚構性を突破するのである。ときには語り得ぬという体験も含め、大きな物語でいろどられた作品を自身の言葉で語り直そうとするとき、すなわち大文字のストーリーが、個々人のナラティブとして語り直されるときに、対象は鑑賞者にその真の姿を表すことになるだろう。

 たとえば、震災について自分自身の言葉で語り直すことによって、その人にとっての震災が自分の手に負える(責任を負える)ものとなって見えてくる。語り直しは、経験を主体的に構築し直す作業である。単なる追体験とは異なる、より積極的な対象との関わりを示し、また用意された物語に対する対比から、語り直しと表現した。

〈語り直し〉の装置としての茶室

 しかし、こうした語り直しは、実際には相当な困難な作業である。たとえば茶器は、その背景に膨大な物語を抱えている。誰それが注文し、誰それの手に渡り、最終的に誰それという目利きがコレクションした。それだけで茶器の価値が保証されているかのように錯覚し、私たちは茶器のそのものを見ようとしない。見ようとしても、その物語が目を曇らせてしまう。それを語り直さなければならない。物語の引き込みが強く、「すごいですね」のような語りに陥ってしまう。

 茶室はその意味で、物語を脱構築する装置として機能し、語り直しの空間を生み出している。うす暗い待庵のなかで、赤楽や黒楽は、その存在感を失っていく。楽の柔らかな手触りと、茶によって暖められた器は手に同化していく。対象との身体的インタラクションの中で、物語が無効化され、その伝説的な茶器でさえも語られ直されうる状況が生まれる。ものとしての重力を失うことで物語が無効化され、そこに向かい合う鑑賞者たる人が一期一会の存在として浮かび上がってくる。 

 

f:id:ryu2net:20180521135050p:plain

妙喜庵(国宝「待庵」)|観光情報検索|京都“府”観光ガイド ~京都府観光連盟公式サイト~

f:id:ryu2net:20180521135123p:plain

楽焼 - Wikipedia

 

 ここで、鑑賞者の語り直しの能力よりもむしろ、あまりに完全無欠なものとして書かれる物語のほうに批判的視点を向けたい。細見美術館でおこなわれた「末法」展では、架空の人物である「夢石庵」のコレクションであるというフィクションをかぶせることによって、物語の重力を無効化し、語り直しの空間を出現させた。謎のコレクターという重しを取り払うことで、なにも知らない鑑賞者も対象についての素朴な語り直しが可能となった。作品にはキャプションをつけず、ものそのものを見てもらおうとしたその展示手法も、ここで改めて生きてくる。一度、物語に取り込まれその世界に誘われたあとに、パッと突き放される。謎のコレクターの末法をテーマにした重厚な物語が急に開かれるのである。待庵と同じ構造、同じ機能が展開されているのである。

f:id:ryu2net:20171001173943j:plain

 いまさらではあるが、そもそも、作品そのものを見るというのは原理的に不可能であることにも触れておきたい。人の成長とは新たな認知のフレーム(スキーマ)を獲得していくことであり、何十年にも渡ってスキーマを強化した成人がそれを取り去って物自体を見るということは、ほとんど不可能である。秀吉のつくった金の茶室をみたとき、「成金趣味」と捉えてしまうのは、金=成金という信念からくるもので、仏像を荘厳するための金とは、想像が及ばない。

f:id:ryu2net:20180521140709p:plain

黄金の茶室 - Wikipedia

 語り直しは、そうしたフレームの変更、パラダイムシフトとなっていなければ、単に従来のスキーマの強化としてしか機能しないだろう。完全無欠なものとして描かれる物語というのは、従来の文化的な枠組みと親和的であり、そこにフレームの刷新の契機は含まれていない。従来のフレームに対する批評的物語こそが、たえざるフレームの刷新の道筋なのである。