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「日本思想の基層にある二重性」|場のシンポジウム2018

場のシンポジウム2018において、東大名誉教授で鎌倉女子大学教授の竹内整一先生による講演「日本思想の基層にある二重性」が行われた。

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「おのずから」と「みずから」

日本の表現には、「おのずから」と「みずから」がある。「結婚します」と言ってもいいのだけれども「結婚することになりました」と表現する。「できる」という言葉にも「出で来る」という語源がある。三木清は「我々の行為は、我々の為すものでありながら、我々にとって成るものの意味をもつてゐる」と書いた。

一方で、「今度離婚することになりました」という表現には当事者が不在であり、「甘え」(土井健郎)「空気」(山本七平)「無責任の体系」(丸山真男)であるという指摘もある。

「おのずから」は、自然の成り行きのままという意味に加え、万一・偶然にという意味でも使われる。(例「おのずからのことあらば」=もし万一死んだならば)ここには、自分の側からすると偶然であっても、自然・宇宙の側からは当然・必然であり、「みずから」の営みにはいかんともしがたい他の働きを示している。

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親鸞における「おのずから」

親鸞は、阿弥陀如来という「おのずから」への働きへの「信」ということによって、「如来等同」(如来と「等し」い存在)や「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」(現生において、成仏することが決定する集まりに入る)となるのだと言った。

西田幾多郎は、親鸞の自然法爾は西洋思想における自然ではなく、また衝動のままに勝手に振る舞う自然主義ではないという。そこには、「己を尽す」「無限の努力」が含まれており、「なるがまま」ということではないのだという。

また清沢満之は、「おのずから」の側から見たときには、「みずから」の働きはその中にあり、一方、「おのずから」の働きはあくまでも外・他の働きとしてあるのだと考えた。「おのずから」と「みずから」のあわいという枠組みで考えるといいのではないか。あわいとは、相向う物の関係を示す。

「いのち」という言葉

いのちは、息の勢いであり、生命を生かしていく根源的な力を示している。プシュケーやアニマ、スピリットなども息を語源を持っている。清水先生は「はたらき」に活きという漢字を当てているが、たしかに働きだと人の動きだけに限定されるが、「おのずから」というものを考えるとき、活きが適当であろう。

親鸞七百五十回忌の東本願寺の統一コピーである「今、いのちがあなたを生きている」も、そうした根源的な力を想起させる。また、「自分」という言葉に含まれる「自」もまた、「おのずから」と「みずから」の二重性がある。

清沢満之の弟子である金子大栄の「花びらは散る 花は散らない」という言葉がある。形としての花びらは散っても、花としての存在は散らない。色即是空、空即是色においては、色即是空は花びらであり、空即是色が花に当たる。この言葉を探ってみたい。

生者から死者へ、死者から生者へ

西田幾多郎が子どもを失ったとき、それを忘れることは親はできない。忘れないでいることが親心であり、辛いことではあるものの、その苦痛が去ることを望まない。死者を「いたむ」というのは、身や心が痛む感情である。また、「弔う」という言葉は「訪う」ということである。能は「とむらい」や「いたみ」を主題として表現する装置である。

そうしたことを踏まえてみると、金子は「花びらは散る 花は散らない」という表現において、別の意味がみえてくる。生者から死者という方向ではなく、死者がこちらにやってきて生者を慰めるのだということを表現したのだろう。生者から死者への営みと、死者から生者への営みとが、あわいとなって行われている。こちらから死者を「思い出す」のではなく、また「思い出される」のでもなく、自分の魂の中に亡くなった人々の魂に会うのだという。

柳田邦男は、永続的ないのちとしての魂が家族や友人の心のなかで生き続けることを指摘した。また、磯部忠正は、幽の世界と顕の世界で説明する。見えない大きな自然のいのちのリズムに身を任せ、顕の世界への通路を見出していくのが日本人の生き方の原型と指摘した。また高史明は、「いのち」が「いのち」を生んで流れて来た「大きないのち」の存在をして指摘する。このような魂の二重性、いのちの二重性が、日本思想の基層にある。

文責:小山龍介

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