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言葉の「定義」というものの意義を高く評価するべきではない

 少し長くなるが、引用する。

プラグマティズム入門 (ちくま新書)

プラグマティズム入門 (ちくま新書)

 

 この思想(プラグマティズム:引用者注)は一般に、言葉の「定義」というものの意義を高く評価するべきではないと主張する。以下で詳しく見るように、私たちの知性が生み出した思想のレッテル、「何々イズム」や「何々主義」という立場が、思想それ自体としてはけっして確固たる定義をもたず、境界や輪郭がぼやけたものであり、さまざまな思想の「内容」「意味」「意義」というものは、その思想の名称にあるよりも、それが応用され、活用される場面で、具体的な利用の文脈の下でのみ、はっきり理解されるということが、この理論が主張するテーゼの一つの重要な柱であるからである。

 本書で引用されているパースの文章もあげておこう。

理解の明晰さの第三段階に到達するための規則は、次のようになると思われる。われわれがもつ概念の対象は何らかの効果を及ぼすと、われわれが考えているとして、もしその効果が行動に対しても実際に影響を及ぼしうると想定されるなら、それはいかなる効果であると考えられるか、しかと吟味せよ。この吟味によってえられる、こうした効果についてわれわれがもつ概念こそ、当の対象についてわれわれがもつ概念のすべてをなしている。

つまり、実際の行動に対してどのような影響を与えるかが重要であり、その効果こそが概念なのだという。言葉の「定義」も同様である。それが実際に行動にどう影響するのかを捉えるべきであり、そうでない「定義」は無意味なのだ。

だから「ダイヤモンドは硬い」という観念は、「ダイヤモンドを使って削ると、すべての物質にキズをつけることができる」と表現すべきなのだということになる。これであれば、実際に物質にキズをつけようとしたときにダイヤモンドを使おうという行動につながっていく。物にキズをつけたいという具体的な文脈の中で意味がでてくるのである。こうした実際的な効果に重きを置くというのが、プラグマティズムの本質である。

ある特定の文脈を離れて言葉の定義を議論し、堂々巡りになっているケースも多い。結局それは個人の「感じ」の域を超えないのだとパースは言う。デカルトが考えたように理性によって「真理」にたどり着くことはなく、つねに更新可能性のある「信念」でしかないのだ。