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美醜の二のない世界としてのニライカナイ

 

新編美の法門 (岩波文庫)

新編美の法門 (岩波文庫)

 

 

柳宗悦「美の法門」P88-100のメモ。

 

『大無量寿経』に書かれた48の大願の四番目に次のような文言がある。

設我得佛 設(たと)い我仏を得んに

國中人天 国の中の人天

形色不同 形色(ぎょうしき)不同にして

有好醜者 好醜(こうじゅ)有らば

不取正覺 正覚を取らじ

 柳宗悦はここから、民藝における美の論理を取り出す。「もし私が仏になる時、私の国の人たちの形や色が同じでなく、好(みよ)き者と醜き者とがあるなら、私は仏にはなりませぬ」。つまり、仏の国には美醜はない。そこは対立が消失する場所であり、それは「無」や「空」と呼ばれる。この「無」とは、有無の二を超えた「無」であるという。

この世界(此岸)は二つに分かれる。どうすれば、「二に在って一に達する」ことができるだろうか。柳は問う。醜いものの対比としての美しいものではなく、その両者の本性にある美を問うのである。そして、仏教は「すでに一に達している」と教えている。「この世の凡てのものは、漏れることなく、美醜の二のない世界に受取られている」と。仏は審判者ではなく、あらゆるものを受け入れる大悲なのだと。

にもかかわらず美醜に分けてしまうのは、人間の分別である。この分別を超える方法として、論理から離れる方法として、仏教がある。あるがままの「本然の性に帰る」ことである。「自然法爾(じねんほうに)」と呼ばれる境地である。

美しく描こう、美しく作ろうと思った瞬間に、それは美醜に分かれる二の世界に留まることになる。自力で美しさへたどり着こうとしても、多くの人はたどり着けない。「経は説くのである。仏が仏になったということは、凡てのものを美しさで迎えるという契(ちか)いなのである」。醜いまま美しくなるのである。美醜の分かれない境地から世界を見て、無にまで深まったものだけを讃えるべきである。小さな自我や分別を離れた「平常心」から生まれたものを見極めるべきである。

 

「ニライカナイ」という異界は、美醜の二のない世界である。私たちはニライカナイに受け止められている。ニライカナイで取り扱う雑貨には、美醜に分かれる前の一としての美が宿ってほしいと思う。

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