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打たれ強いブロガーになるためには〈他者〉を自己に宿すことが大切

自分がやることに対して具体的に手助けをしてくれるわけでもない第三者の評価を過剰に捉えて、足を止めてしまうというのは何なんでしょうね。

打たれ弱い奴はブログとか辞めたほうがいいんじゃないですか(山本 一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

 という山本一郎さんのエントリー見て、投稿。打たれ弱い奴はブログやめろ、ということなんですが、まったくそのとおりだと思います。

他人からの批判や、逆に賞賛を気にする人というのは、結局、他人からの評価を目的にして活動しているわけです。いわゆる外発的動機付け。ブログの更新も、うちから沸き起こる内発的動機ではなくて、そとから評価されるからがんばっちゃうんですよね。

もっと別の言い方をすれば、舞台で極度に緊張しちゃう人って、「かっこよく見られない」「うまくやりたい」「恥をかきたくない」っていう自己中心的な気持ちがあるからだったりもします。そんなもの捨ててしまえば、迷いはなくなるわけです。

でもですよ。そんなことを書きながら、たとえばページビュー(PV)に一喜一憂する自分もいるわけです。「昨日より増えた!」とか「いいこと書いたのに、PV増えない!」とか。そんな自分の心の動きを見て、まだまだ修行が足りないなあと痛感する日々です。

他人の評価に左右されない自分を作るには、自分自身が〈他者〉となるしかありません。自分で満足するだけなら、それは自己満足です。しかし自分が〈他者〉となったとき、その〈他者〉が喜ぶようなことをすれば、それは自己満足にはとどまりません。

能というのは、〈超越的な他者〉としての神を宿すことであり、能舞台に立っている能楽師は、ひとりの個人ではなくなっています。糺の森の木々は、一本一本が独立しているのではなく複雑な関係性をもっています。〈超越的な他者〉とは、個人個人に還元されないもので、それは関係性として表現されるものです。

ちまたで「パワースポット」などと呼ばれる場所がもし特別な場所だとしたら、それはそうした〈超越的な他者〉が表現されうるような〈いのちの複雑系〉が成立しているところだと思いますね。神社ってそういう関係性をデザインしている場所なんだと思います。

と、話が大幅に横飛びしましたが、そういう〈超越的な他者〉としての自己、つまり関係性の中にある自己を感じていれば、他人の評価に一喜一憂することはないんですよ。その〈超越的な他者〉はある人にとっては神様かもしれないし、政治家にとっての歴史の審判ってやつかもしれないし、昔の日本人のいっていたお天道さまってやつかもしれません。

と書きつつ、この投稿のPVが気になって仕方がない(笑)。